儒家思想の現代意義
儒家思想は中国文化の基礎でした。
長い間中国の学問の中心にもなっていました。
四書五経を経典として、人の倫理的修養をメインになっています。
現代の視角から見れば、儒家学説の中に提出された理念は時代を超えるばかりではなくて、国境も超えました。
ヨーロッパの企業家や政治人物たちは管理概念を制定するときにも、儒家の経典から智慧を取って成功したケースが少なくありません。
人類歴史からみると、儒家を基礎としての中華文明はただ一つの途切れない古代文明です。
過去の2000年間以上の間に儒家の進みは相当難しかったのですが、その強大的な生命力はいつまでも弱くなりません。
儒家文化とその価値観は中国の民族精神の大切の要素になっています。
なかなかこのような話を得意とする人はいませんし、いきなり話し出すと引かれてしまいますが、少しコミュニケーション能力の劣る人ほど、自分の好きな話題については見境が無くなります。
理性がぶっ飛ぶんでしょうね。
相手を気遣うと言いますか、これを言うと相手がどう思うのかという想像力の欠如が、コミュニケーション能力を低下させていることに気付かなければなりません。
マニアっくな話題を持っている人ほど、実は、空気を読むことが出来ますからね。
それから妙にオドオドしています。
自分に自信が無いのか、それとも単に落ち着かないのか、目を見て話せとは言いませんが、うつむきがちですね。
中国語を勉強して諦めてそれでも活きる経験
いつどんなところで何が活きて来るのか分からないもの。諦めた中国語の経験が活きる場面に遭遇した。
何が活きて来るのか全く分からないものである。
何の役にも立たないと思っていたようなものでも、ある時役に立ったりすることもあるものだ。
始めたことを、何らかの理由で諦めたり辞めてしまったりすることもあると思うが、それを激しく後悔するシーンもある。
自分が辞めた何かを続けていた人が、目の前に現れた時。
その人が、成功していたりイキイキと生きているところを目にした時等は、そんな風に思うのかもしれない。
こうやってみると、本当に我々は色んな選択をしてきたことに気が付く。
やったこと、やらなかったこと。
辞めたこと、辞めなかったこと。
私は、中国語に真剣に取り組んだことがあった。
夢もあったし、理由もあった。
しかし、結局中途半端に手放してしまった。
自分で納得できるレベルまでなれたから、それはそれで後悔はしていない。
一日一日を惜しみながら勉強したと言う経験も、私にとっては、非常に意味を持つ。
しかし、同じころに中国語を始め、その後もずっと続けてきたことで、素晴らしい今がある人も何人かいる。
本当に努力の人で、私の数十倍、数百倍の根性と熱意でこれまでやってきた人達だ。
流暢に話したりビジネスに活かしたりしているところを見ると、心底羨ましくなる。
そして、自分を比較して落ち込む。
ところが、そんな私であってもこの経験が活きるシーンに遭遇した。
色んなタイミングが重なり、必要とされる場所にいるのだ。
ビジネスとは縁が無いのだが、とても嬉しいことだ。
面白いなと思っている。